昭和43年3月7日 夜の御理解
ここには、信心の稽古に来る所、ここには信心の稽古に来る所である。お参りをする事、御教えを頂く事、信心の稽古である。御祈念をする事もやはり信心稽古である。けれどもそういう、その祈っておるという様な事が、ただ御神前だけではいけない。一日が祈りの生活でなければならん。ここで有難いと例えば感じたものを、うちに持って帰って、やはりその有難いが延長して行く様な、そういう稽古をしなければいけない。
今日、昨日か、おとといからか、あの福岡の渡辺先生が、毎日このお広前を拭かれる。三時間くらいかかる、ね。皆さんも御承知の様に強いお方じゃないけれども、もう家では、例えば、あの五枚か十枚畳を拭いてもきつい。ところが、先生ここじゃあこれ何十枚の、いわば五十枚近くの畳を拭かれるのに、ひとっも疲れません。ほんとに有難い事だとこう言われる、信心の稽古がでけておるわけです。もう有難い一念、喜びの一念を持って御用さしてもらう時に、きつうなからなければならないはずの事がきつくない、ね。そこでそういう様な喜びの一念、お礼の一念、またはお詫びの一念ね、お礼の印に様にです、なら、家庭でもやはり、そういう御用ができなければならん、というところに稽古があるわけです、ね。ここでだけでは有難い。家ではもうきつい。これではそこんところの、私は有難いという、その時間を広めて行くという事が信心なんですけれども、ですからここでも、そのまあ有難くないというなら、こりゃあもうお話になりません。けれど、いわゆる稽古不足です。修行不足です、ね。本気で修行さしてもらう。本気で拝む稽古もさしてもらう、ね。【 】眠り半分で御祈念するんじゃなくて、もうほんとに一生懸命御祈念さしてもらう。そういう稽古ね、お話も一生懸命頂くね、稽古をさしてもらう。そして本気で、その有難いという心をです、例えばそうした、お礼の奉仕をさしてもらうね。せめて、あのここだけでも、せめてこのくらいの事を、といった様なふうに、そのさせてもらうところに、きついはずの、例えばその勤労がきつくないおかげになって来る。眠いはずのところが眠くない【 】が生まれて来る。だからそれがお広前だけではいけんね、それが家に帰られても、やはりそれがお礼の印に家の畳もやっぱり拭かにゃいかん、ね。有難いの一念がやっぱりうちでも、どういう例えば御用さして頂いてもです、疲れんで済む様なおかげを頂かしてもらう事が、信心生活なんですね。先人、先覚もあらゆる角度から、いろいろ説かれておりますけれども、そういう生活が信心生活だと思うんです。ところで家に帰ってやはりきついという所にです、結局自分の稽古不足というか、思いの欠けておる事、いわゆる有難いの一念が欠けておる、ああ、またお掃除ばせんならん、またこうせんならん、はあ、まあ大事ちゃこんな沢山の事、という様な思いが入って来る所にですね、やっぱり眠かったり、きつかったりするわけです、ね。信心の稽古をさせて頂くという事は、ここにゃあ信心の稽古に来る所ですからね。例えば御用のひとつも頂かしてもらう。その御用が有難いという所まで、稽古をひとつ高めて行かなきゃいけん。その御用さしてもらう事が有難いならばです、その精神を持って家でも御用さしてもらう、様々な御用を。そしておかげで疲れんで済む。今日もおかげを頂いて有り難う御座いました、というこの有り難う御座いますがね、そういう信心生活の、いわば明け暮れと申しましょうか、そしてそれが夜の御祈念なら夜の御祈念になって、今日もおかげを頂いて有難いというその有難いが、神様に通う。それが御徳になる。私はそう思うですね。ここでだけが有難いのではない。家で有難くなからなければならない。ところが有難くない。そこにです、自分達の思い方、ね、考え方、または御用の内容というものが重なってある事を悟らしてもろうて、お広前と同じ様な有難さの頂けるところまで、信心を進めておいでられる。そこに例えば、ここで有難いものが、御理解は有難いというところに、本当の渡辺先生の助かりというのが私はあると思うんです。皆なもその様なおかげを頂いてもらいたいと思うですね。ここには稽古に来るんです。ここだけじゃない。その稽古した事を家へ持って帰って、またそれを復習さしてもらう。同じ稽古の味わいというか、信心の味わいが預ける様な信心が大事だと思う。どうぞ。